もりくらの根源にあるものをまとめます!
・ネダルナ・カチトレ・さすれば与えられん!
・森が与えてくれる・・・・でも頼っていいのは森だけ。
こどもに頼るべきじゃないことは、解ってても、じゃあ大人に頼ればいい
はずもなく、まして行政とか政治とかに頼るのかよ・・・
これも忘れない!
千年の森自然学校は、僕らが勝手にやらせていただいていますが、本拠地の山は主爺こと市川社長の山です。基本的なシステムや考え方も彼から引継ぎました。決して饒舌な人ではなく、彼の後姿から多くの仲間が学び、失敗させられて今に至っています。
そろそろ、市川社長の考えなど、自分達が教わったことを、文書に残そうと考えています。なんか変に褒めるみたいでいやだったんですが、不摂生な彼ですので、死なれてから後悔しないように、今から記録を残そうかと思います。(本人はもちろんいやがりますので、当分目立たないこのページでやります。)
同時に、他の人が言ったことでも、「これってもりくら」と思ったことを集めます。
思い出したことがあればなんでも結構ですので、お寄せください。いづれ大事なものになると思いますので、よろしくお願いします。
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「なあ、おまえぇ」とやさしくつぶやいた後に始まる彼の話。「考えろよ~」とは言っても答えを言わない人で、答えは自分で見出させるようにしか話さないので、名言集というほどないのですが、長く付きあった仲間が、後になってこういうふうに言ってたんだと思うことが多々あり、そこから生まれた言葉も含めます。同様に、メンバーやこどもたちが発した言葉などで、もりくららしいものを集めます。
「山は人を選ばない・・・」
いろんな人がいて、それをいちいちあの人はどうだとか言っていること自体が、主爺にはない。人間を選んで付き合うことがない。特に、子ども、障害を もっている子、悩んでいる子、ものすごい手間のかかる子・・・・むしろそんな子程 熱く接する主爺・・・・それを何年も見てきた仲間から出た言葉です。主 爺の山だから山がそういっているように思うということから来ていますが、みんなホンとにそう思います。
また、山(自然)は、人を選びません。誰にでも同じように微笑み、同じように厳しい。だからこそ、集まったみんなで助け合い、楽しみあう場所になっているのではと思います。もし、あなたの近くに困っている人がいたらなおさらお連れください。
そんなことで、この言葉が「もりくら全体の根幹のコンセプトになっています。
「もし、その子の目が開くなら、山の大木を切ってもいいぞ」
最初のころ、彼が僕に言ったことばです。あのころは、お金になる自然体験をやるとか言ってた僕に、それを見かねて牽制して出た言葉だと思います。彼は彼の 広大な山の森や木や川や動物や小屋や道具などすべてのもを大切にしています。がその大切なものたちを、たった一人のこどもの為にでも、自由に用いよ!」と 指令を出したのだと思います。依頼13年間、彼のスタンスは変わる様子は微塵もありません。
実際彼は、たった一人の子どもの為でも
源流まで行き、野生岩魚をつかませたり
五右衛門風呂を8時間もかけて沸かしたり
胡桃の木に「わたしの木」という札をかけて、木をあげたり
それはそれは、限りないくらいの話があります。
が、一番言いたかったのは、環境教育とか保護とかも大事だが、すべては人間の為に、特に「次の世代の人たちの為にやって欲しい。」
ということだったのだと後から理解しています。いかにも彼らしい表現です。
生き馬の目を抜くような競争社会の一員でいた後、山にやって来た私には、革新的な言葉たちです。それが12年経って、やっと本気で言ってくれて来たことだと思うし、自分もこんなことが伝えられたらと思い始めています。
「山は自由・何をしてもかまわない!」
これも、実は主爺から出た言葉ではありません。「何をしても・・・」とは、主爺は決して言いません。山火事を出すなとはよく言いますし、きっと素晴らしい木を売り飛ばしたり、来てくれた人をほおっておいたり、子どもを好き嫌いで選んだり、などしたらそれはもう怒るに違いありません。
私が社長の愛車を谷に落とした時も・・・・
主爺のキャラバンのエンジンが吹いて100万円かかった時も・・・
今は光の広場と呼ばれるようになったミズナラの林をバッサリ切り倒した時も・・・
森の図書館が雪の重みで倒壊した時も・・・
バギーが全部、つぶれた時も・・・・
彼の好きな「いいちこ」を誰も買っておかなくても・・・
主爺が一生懸命作った名主小屋が廃墟になりかけている今も・・・
何度も何度も連れてきた人が、結局 ぼくらを理解してくれなくても・・・・・同じことを続けている・・・・
長く関ると彼の想いに答えるには、何をしてもいいから、何かしようという気持ちになります。
しかし、もっと大切なのは、人は皆、自分のしたいことを自ら選び、決め、実行する権利をもっています(それが公共の福祉に反しない限りにおいて)。これは誰もが知っているはずのことですが、実行する場所や人のつながりが薄らいで行きつつある今の日本(ここまでの国は、日本だけなんですが・・・) では私たちも忘れがちです。
木を切れば、その後その場所の森がどうなって行くのかは、森が自分の力でみせてくれます。それは切った人が一番気にしていて、他人がとやかく言う筋合いのものではありません。(唯一の権利者は主爺ですが、この人が言わないので)ですので、私達は何もしないで見ているだけの人にその汗をかいた人の行為をとやかく非難する権利はないと考えます。非難するなら、対案を実行すればいいし、一緒になってもっといいやり方を実行すればいいだけ。
ここへ来れば、広大な森を前に、子どもだって自分の力で、なんとかしないといけないなと思って行動します。自然を理解すること、いつも危険がそこにあるということ、必要だから助け合うこと、そして人も理解することなどが、自ずと自分の中に入って来ます。それがきっかけとなり、そのために学び、他人の話を聞かねばならないことを身に付けて欲しいと思います。自分が理解できない人を排除したい(=いじめというらしいです。)のは動物本来がもっている防衛本能です。が、人だからこそ違いを理解しようとし、その人の良さや正しさに敬意を払って理解すべきです。私達はそんな子どもを育てたいし、大人に対しても、思い出して欲しいのです。
・・そんな世界の入り口に、この言葉があります。
「地に返す」
これは、彼の口から出る言葉です。もりくらは、ものを作ります。ツリーハウスがその代表的なものですが、今では随分知られるようになった6角形のツリーハウスも彼の設計です。いづれ朽ち果てる時が来たときに、自然に分解され自然に還る材料しか使わないということです。
同時に、無駄なものを入れないこと、無駄なお金を使わないこと、便利な道具やモノに頼らないことも含まれています。
「身に帰ってくる」
これも彼の言葉ですが、人にやってもらったり、お金で解決する選択を良しとしません。やり方が悪ければ、ケガをしたり自分が大変だったり最後には自分の身に帰ってくるようなやり方をあえてします。
楽で安全なものを買ったり、売ったりしません。
自分で汗をかいて苦労して、出来た時には自分自身が育ったり身に付いたりすることを大切にします。
「自分で育てろ」
子どもや若者のことで、不満を漏らすとこう言われます。 他人を見るように愚痴を言うのではなくて、自分が育ててやれてない、やることをやってないから そう思ってしまうのであって、じっくり時間をかけて、伝えていけば、その人は必ず育つ。そのための手間や時間を惜しんでいるようでは、だめだという意味。
「もったいない」
言葉でも聞いているけど、彼の行動、人生そのものですね。あるものがあるのに買ったりするのがいや。とことん買わずに、あるもので何とかすることに必死になる。 まあ、諸行無常を悟った末に行き着けばいいかなあくらいに心にとどめておいてくださればいいくらいです。
「ありがたい」
これも、もったいないとセットで存在します。この二つが日本人だろと思います。
この言葉をまとめて、生きる指針にまであげたのは、社長が敬愛する 岩手の吉成さんです。僕も師として仰ぐようになった人。この2つだけでも僕ら日本人が失った美しい人、生き方、故郷を取り戻す出発点となる。
「モノより思い出」
前項の言葉で思い出しましたがこの言葉は、カタログハウスの千葉さんがもりくらのツリーハウスに付けてくれたコピーです。
まさに、主爺のツリーハウスを一言で表していて、今ではもりくら全体の根っこのコンセプトで、僕らもそう思います。結局、ものづくりよりも、人づくりを優先してしまうところがあります。
「いつも新鮮な風が吹く。」
雪の降り方も風の吹き方も、花も木もカモシカも、解っているつもりでいても、来るだびに新鮮なシーンを目にしている。
こんなもんだろうという想像を超えてくる。それがごの山の自然です。
そんな山の光景を見ていると、とんでもない人が来て、よくわからない言葉で話していても、そんなに違和感はありません。
そもそも山の自然そのものが、いつも新しく、自分の想像がいかにちっぽけなものであるかを教え続けていてくれるから。
もともと、この山が私を迎え入れてくれたし、次に来る人にもそうなんだろう。
みんなもそうでしょう。新しい人にちょっと構えたことありませんか?迎え入れるのに躊躇したことありましたよね?
でも、結局、みんないい人ばかり。それって変な話です。ロジカルに考えるなら、世の人がすべて素晴らしいか、ここにたどり着く段階で、何かのふるいにかけられているか、森がそう変えるの3つです。いづれにしても、森はいい仲間を迎えいれてくれています。
私は、常に新しい人の風に吹かれていたい。新しい人が来てくれて、僕らに新しい風を吹き込んでくれる。人に臆病になっては、もりくらじゃないと思う。
「明るすぎる光はいらない」 (2011.4.19)
戦後の日本は、とにかく明るいのが好きですよね。ヨーロッパなどは、ランプの薄明かりを本当に楽しんでいますよね。この国にも陰影を楽しむ建築文化などもあったのに。お月なんて風流を、自宅の座敷や縁側や庭で楽しんだくらいですからね。
「明るさは背後を見えなくする」ので、もりくらでは大きすぎる光は好まれません。ランプの光なら、背後の森の様子も感じます。月明かりも十分見えます。暗闇に対する恐怖感も薄らぎます。大きい光は虫を呼び感覚を鈍らせるだけです。(ただ酔っ払うだけの時は明るい方が安全ですし、大勢の時は大きな明かりを灯しますが・・・・)
「大きすぎる火は何も生まない」
いえいえ、日常はそれに包まれて生きてますよね。でも、せめてここでは、小さなエネルギーでの生活を体験し、楽しみ、学びたい。小さな火でもかなりのことが出来ることを知ってから、大きな火の弊害を考える時間をもちたい。
大きな火 小さな火
ガソリン車~電気自動車~バス~自転車~徒歩
電気照明 ~ ガスランタン ~ ランプ
電気カーペット ~ 湯たんぽ
湯沸かし器 ~ 冷たい湧き水
水道 ~ 湧き水を汲みに行く
電動工具 ~ 手鋸
さらに言葉にはなっていなくとも共通の理念になっているものを考えてみます。
「足ることを知る」
これは、言葉集ではないです。だれも使ってませんので。ですが、とにかくみんな、何かするとき、それ用の道具などがないときが多いのです。それでしかたなくあるもので、何とか工夫してやってしまいます。それが当たり前になっています。
林道ですから石が落ちてきます。
春先や大雨の後はいつも、拾っているのですが、道端にちょっと残しています。みなさんに、ここは石が落ちてくることを伝えたいからです。事前に防ぐ大工事は無理ですし、そんなことが出来る場所なら私は興味がありません。そんなことしたら だたの公園になってしまいます。